「人生100年時代」という言葉を聞いたことがありますでしょうか。
世間一般では65歳で「高齢者」という称号がついてしまいますが、はたして65歳は本当に高齢者なのでしょうか。僕個人の感覚としては、65歳はまだめちゃくちゃ若いです。
医学の進歩により、寿命は年々延び続けています。
100歳というと総理大臣に表彰される奇跡的な長寿だという認識があるかもしれませんが、これからの時代はその100歳がごく当たり前になるのです。つまり、65歳という年齢はあと35年の余生を残している段階だと捉えられます。
するとどうでしょう。高齢者というイメージは瞬く間に薄らぎませんか?
「もういつでもポックリ逝けたらいいわ」とか、「もうこれ以上長生きしてもしかたない」という言葉を聞くと、ちょっと残念な気持ちになります。
せっかく延びてきた寿命を健康で幸せにまっとうするにはどうしたらいいのか、大きなテーマですね。
さて今回は、あまり考えたくないかもしれませんが、人生の終着地点のお話です。
「高齢化社会」という言葉はよく耳にするかと思いますが、その定義はご存知でしょうか。
65歳以上を高齢者としたときに、人口の7%を超えると高齢化社会、14%を超えると高齢社会、21%を超えると超高齢社会と呼びます。
ちなみに日本はとっくの昔に「超高齢社会」に突入しており、来年には高齢者の比率はなんと29%を超えます。
そんなことを言われてもピンとこないかもしれませんが、自分ごととして捉えた時に考えなければならないことは、どこで最期を迎えるかということです。
現在、約8割の人が病院で亡くなっています。一方で自宅で亡くなっているのは全体の15%です。この15%という数字はどのように感じますか?そして自宅で亡くなるというのはどのようなイメージでしょうか。
私もずっと訪問診療をしていて、ご自宅でのお看取りはこれまでに数十件ほど経験しました。やはり病院と違って自宅で家族に見守られながら最期を迎えるというのは、不謹慎な言い方かもしれませんが、とても良いものです。
しかし、このような「自宅での看取り」ですが、先ほど全体の15%で行われているという話をしましたけれども実はその半分しか行われておりません。
では自宅で亡くなる人の残り半分はどのような形で最期を迎えるのでしょうか。
答えは、「異状死」です。
異状死とは、突然死であったり、孤独死、自殺など死因がわからない場合のことを言います。この場合には医師は死亡診断書を記載できません。そのためご遺体は警察によって検死が行われます(その後に解剖まで至る例はまれですが)。
このように自宅で亡くなるといっても、前者のように温かい看取りもあれば、後者のような残念な形も存在するのです。
さらに、「看取り難民」という問題もでてきます。
超高齢社会で当然亡くなる方も増えていきます。一方で最後まで入院できるような病院はどんどんん減ります。結果として、なにも考えずに病院で亡くなることができていた時代は終わり、亡くなる場所がないという人たちが出てきます。これを俗に看取り難民と言うみたいです。その数、なんと20年後には40万人に及ぶ見込みだそうです。
このような時代で私たちができることはなんでしょうか。
まずは、そういう状況なんだということを知っておくこと。それから「地域のつながり」という観点がとても重要で、なんらかのコミュニティに属しているということが大切なポイントになります。
またこのあたりのお話をブログで展開していきたいと思います。
Comments