「人生会議」とか「アドバンス・ケア・プランニング」っていう言葉は聞いたことありますか?
人生の最終段階をどのように形作るかをみんなで話し合って決めておこうねっていうやつです。
厚生労働省のホームページには、その定義から実践まで詳しく載ってます。95ページにもわたって…。そんなのは見ないですよね。全く参考になりません。
一昨年、アカラセミナーというのを2回に渡って行いました。数十名の方々にお集りいただき、「最期」についてのお話をさせていただきました。
その際に、「人生の終末期における意思表示書」というのをみんなで作ろうという形にもっていこうと思ったのですが、やっている途中でそれをやめました。あまり意味がないなと気づいたのです。
セミナー自体は有意義なものとなったのですが、形として意思表示書というのを残すことに疑問を持ちました。
皆さんの中に、ご自身や家族が入院した時や施設に入るとき、「延命措置について希望はありますか」という質問をされた方はいらっしゃいますか?
この一連のプロセスですが、個人的には10年以上前から嫌でした。
患者さんのため、というよりは、病院や施設を法的に守るためにさせられる作業という意味合いが非常に大きいと思っていたからです。
人生の最終段階のことなんて、誰にも分りません。
予期せぬことが起こらないほうが不自然だと思います。
したがって、意思表示書で決めたことって、実はあまり役には立たないのです。
ましてや医者から「延命治療はどうしますか?」なんて乱暴な質問を投げかけられても、正解を答えることは医者自身でも非常に困難です。
「事前にすべて決定しておいて、いざというときにそれに則って実行する」ということは、現場の肌感覚からして、無理です。
人生会議とかアドバンス・ケア・プランニング自体は大切だと思います。
でもなにかを決定することが重要なのではありません。
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大切なのはマニュアルではなく、自分自身や家族、友人ならどのように考えるかな?っていうことです。
その人の最後の瞬間だけに着目してはだめで、その人の人生自体を考えるということ。
その人の「物語」を家族や友人たちみんなが知っていて、その人の「物語」の最後をどうするかということを考えた時に、みんなが一様に同じようなエピローグを考えるっていうのが理想かなと考えます。
それが、ひいてはその人の最期の意思表示とイコールになるはずで、文章で形に残す必要はないということです。
何度繰り返し言っていることですが、大切なのはつながり。
たとえ物理的な距離は遠くても、心理的な距離が近ければ大丈夫です。
とは言ってもLINEやSNSなどの電波のつながりだけではなくて、たまにはリアルなつながりもないとダメでしょう。
人生の最期って、考えたくないですよね。でもちょっとだけあたまの片隅にいれておけば大丈夫です。そしてそのうえで、自分を含め、家族友人の「人となり」を理解しておく。
必要なのは「会議」なんて大げさなものではなく、「つながり」による他者への興味、関心、理解なのだと思います。
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