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  • 執筆者の写真ShinFukuda

100年前の不定愁訴について考えてみる


生きていれば、とくに年を重ねていけば、様々な気になる症状がでてくる。

ふらつく。しびれる。いたい。くるしい。だるい。。。


調べても原因が分からないときや、複数のあいまいな症状が同時に存在する場合には「不定愁訴」と言われる。


はて、これって例えば50年前には概念としてあったのだろうか。

100年前は?200年前は?


不定愁訴の文献や資料を読んだわけではないので、以下はあくまで「私の肌感覚」であることを断っておく。


医学が進歩して、特に一般の人にとっては漠然と、最近になって急速にいろいろなことが解明されてきて、たとえばiPS細胞とか、新しいタイプの抗がん剤だとか、なんだか昔には治らなかったものも治るようになってきた世の中だ!と感じていることだと思う。

ひと昔前には分からなかった病気もわかるようになってきた、とか、難病の治療薬も開発されつつある、とか考えるようになるのはみんなそういう感覚なのだろう。


なにか気になる症状がでたときに、必ず人は原因を追究したくなる。それはその通りで、体の症状というのは「病気のサイン」であることが稀ではないからだ。

心配になるのは当然で、調べてはっきりさせたいと思うのも当然である。

しかし100年前には、精密検査をするという概念すらなかったのではないかなと、思ってしまう。つまり、たいていの場合はただ様子をみていた。様子をみていて、大半は勝手にその症状は消失する。稀に悪化して、当時の検査や診断技術でわかるレベルにまで進行する。


「医学が進歩」している今、検査をして安心するまでのレベルがかなり上昇してしまっている。

患者さんも、医者もだ。

患者さんは患者さんで、とことん検査して欲しいし、医者は医者で、わずかな可能性のある見逃しを避けるために過剰な検査に走る。100年前には気にせず放っておいたことであっても。


精査中の期間はそれこそ患者さんにとっては不安な毎日で、その不安がまた曲者である。

不安によってその症状は悪化することもしばしばあるからだ。


「医学が進歩する」という、漠然とした一般的なイメージも、考えようによってはいろいろな弊害を生み、最終的には医療費の高騰につながっているなと感じる。


ある症状で苦しんでいる人に、「気にせず様子を見てくれ」というのはなかなか心苦しいし勇気がいる。

やさしさが、邪魔をしてしまう(笑)

100年前の診察現場とか、一度見学してみたいな。

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